My Mother

Here’s my unfinished essay about my Mother, with a little bit of insight into my father. It’s all in Japanese, but I assure you that I’ll translate it and send this to my mom when I’ve finished it. I think this perfectly portrays the hardships she underwent to raise me and my younger brother to be who we are. I’m not done yet, nor has it been finally edited, but for those of you that can read it, I hope you enjoy it.

Regardless, Happy Mother’s Day to you all!

三十年ぐらい前に僕はフィリピンで生まれた。うまれた時から今まで僕は父と会ったことがない。母の話では父が米海軍で働いていたそうだ。アメリカに帰った後で、父はなくなった。母は僕に父の最後の手紙とアメリカの住所をくれた。

小学生の時に父に手紙を書いたのに全然返事をくれなかった。それで、母に向かって「どうして父は僕に手紙を返事をくれなかったか」と言った。母は「どうしてか分からないけれどもあなたのことを実に愛しているよ」と言って泣いた。それから、母はそう言った時から最近まで、父の事を話してくれた。

それじゃ、僕の母は素晴らしい女性だと思う。母は父がいなくても僕の事を世話してくれた。実は僕がアメリカに来る前に母は僕のためにオレゴン州のポートランド市に来て働いた。十分お金を貯めていた時に僕の片道航空券を送ってくれたので僕はアメリカに来ることが出来た。母はいつも僕のために何でもしてくれた。例えば、子供の時に絵を書く事が好きだったので店に行って僕のために紙を買ってきてくれた。

小学生の四年生の時に大切なプロジェクトの締切を忘れちゃったので最後の夜になった時、母に言ったら母がビックリした。「ヤバイ!早く始めましょう!」僕たちは遅くまで起きていたが、僕は寝ちゃったけど母は起きてプロジェクトを済ませた。その次の朝に僕が起きると、母は僕に終わったプロジェクットを見せてくれた。プロジェクトは小さなフィリピンの萱葺きの家のダイアグラムを作らなくちゃならなかったが母は一人でたくさん萱葺きの家を作って大きに村を作った。このダイアグラムは素晴らしかった。母は爪楊枝で萱葺きの家を作ったりブロコリーで木を作ったりした。学校に持っていた時に先生が僕に向かって「これは本当に一人で作ったか?」と言った。僕は「はい、そうです。」と答えた。先生は信じられない顔をしたのに笑って「そうなんですか」と言った。

僕の一生に友達で「君の笑う事が大好きだ」とよく言うだけど、実は僕の笑い方は母でもらったと思う。母は仕事で労働しても、人生のため慌ていても